「秋の訪れ」(9/25)
「月月に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月」
昨晩は中秋の名月でしたね。
皆さんは楽しまれましたか?
そして、禅塾の庭にも、ようやく秋が訪れてきたみたいです。
「月中秋に到って満ち 風八月より涼し」
白壁から顔をだすようにして、7月の終わりから約1か月半の間、
咲き誇っていた百日紅(さるすべり)の花は、もうすでにほとんど散ってしまいましたし、
いつか近所の細枝をもらって挿し木した木槿(むくげ)も、
いまは大きく育って、この夏中、
毎日たくさんの花を咲かせ楽しませてくれましたが、この頃は数輪のみ。
いまは白萩(しらはぎ)とススキの穂を、隠寮の部屋から見ることができます。
(それらは、先々代の森本省念老師が好んで植えられたと聞いています。)
昨年、わたしが植えた紫式部も、小さな紫の実をたくさん付けていますが、
予想以上に大きくなりすぎて、これにはちょっと困っています。
「ふとみれば なずな花咲く垣根かな」(芭蕉)
目を凝らせば、そのように、どこにでも「小さな秋」を発見できます。
それにしても、自然の営みは偉大ですね。
「天何をかいうや。四時、行われ、百物生ず。天何をかいうや」
論語にでてくる言葉です。
自然は一言もしゃべりませんが、四季の循環に合わせて、
いろいろのものを、この大地上に生みだし、
そうして、それらを通して、実はわれわれに説法してくれているのです。
それはどういうことか、そのヒントを
中国の詩人、蘇東坡(そとうば)の歌に聞いてみましょう。
「渓声これ長広舌、山色あに清浄身にあらざらんや」
「長広舌」は、お釈迦さんの説法、「清浄身」は、清浄な仏身のことです。