一所懸命 西田幾多郎の場合」(10/3)

 

秋晴れの心地よい一日

京都大学で開催中の「京都大学の西田幾多郎」展を見に行ってきました。

 

西田が日本の生んだ世界的哲学者であることは、

いまさら言うまでもありません。

もしノーベル賞に哲学部門があれば、

きっとその賞を獲得しているに違いないでしょう。

その哲学は、自らの禅体験に基づき、「無」を根底とした、

世界に類を見ない、まったく独自の哲学であるからです。

 

ところで私がここで取り上げたいのは、

西田の哲学の偉大さについてではなく、

彼の日常生活の仕方についてです。

 

西田は哲学の動機を悲哀と考えましたが、

彼の家庭生活は実に悲哀に充ちたものでした。

実父との確執、妻の死、弟の戦死。

これだけではありません、愛しい子供たちに次々に先立たれています。

そして、こう詠います。

 

運命の鉄の鎖につながれて 打ちのめされて立つ術(すべ)もなし

 

しかし、その間も気持を折ってしまうことなく、

こつこつと厚い岩盤を掘削するように、

彼の思索活動は続けられました。

すごいことだと思います。

 

一所懸命という言葉がありますね。

ひとところに命を懸ける」という意味です。

西田は思索のときは思索するという一所に、

家庭のときは家庭という一所に、全身全霊をそこに参入させました。

彼はいつも一所懸命でした。

 

こうした西田の行き方は、彼が若いときに経験した、

猛烈な禅の修行と決して無関係ではないと、私は思うのです。

(なお、関連記事として、本HP上にある私の「京大講義録(1)」の最終部分も参看していただければ幸いです。)

北野大雲老師の京大講義録(1)

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