洗心のすすめ(12/27)
「海の底の景色も陸(おか)とおんなじに、
春も秋も夏も冬もあっとばい。
うちゃ、きっと海の底には龍宮のあるとおもうとる。
夢んごてうつくしかもね。
海に飽くちゅうこた、決してなかりよった。」
石牟礼道子『苦海浄土』の一節である。
「龍宮のあると」見まごう、不知火の海が、
工場から垂れ流された有機水銀によって、ヘドロの海と化した。
水俣の悲劇は、決して忘れられてはならない。
不知火海の夜明け
汚染の問題は、しかし、外的世界のことだけではない。
根本的には、むしろ内的世界、すなわち、
わたしたちの心の世界の汚染が問題である。
(この内的世界は、直接的には不可視であるだけに、いっそう厄介である。)
仏教では人間の心は、本来清浄なものであると教えている。
ところが成長するにつれ、知恵が付きはじめるとともに、
清浄であった心が汚染されるようになるのである。
聖書にも、人類の祖先が知恵の木の実を食べたために、
この世に罪が入ったと書かれている。
知恵は優れたもの、有難いもの、と考えられているけれども、
実は両刃なのだ。俗にいう「悪知恵」ともなるからである。
(環境汚染はこの悪知恵によるところが大である。)
生れ子の次第次第に知恵つきて 仏に遠くなるぞ悲しき
だからわたしたちは自分の心の汚染に気づいたら、
すぐにそれを払拭する努力を怠ってはならない。
それがヘドロの海と化す前に。
年の終わりに当たり、これまで溜まった心のアカを
坐禅という洗浄剤を使って、洗い流してみては如何でしょうか。
(本来無一物なのだから、心の汚染など初めから問題にならない。
これが禅の考え方である。けれども、それはそれとして、
一般的にはやはり心の汚染は問題となるだろう。)