泥中の蓮華(7/18)

 

睡蓮(禅塾前の池)

 

いま禅塾の前の池では

可憐な白い睡蓮の花が

水面から少し顔を出すようにして咲いています。

 

この花は

夕方になると花を閉じ

朝、陽が昇りはじめるとともに

花を開いて、あたり一面にかすかな芳香を漂わせます。

 

睡蓮と間違われやすい花に蓮(ハス)があります。

睡蓮は水面近くに花を咲かせますが、

蓮はながい茎が水面から出て、

その上に薄桃色の大きな花をつけます。

 

蓮(八条が池、長岡京市)

 

両方とも初夏になると

池の中で花を咲かせますので

間違われやすいのですが、

種類はまったく違うそうです。

 

しかし、睡蓮と蓮はよく似ているので

両方を合わせて蓮華(れんげ)と呼ばれています。

 

この蓮華は、仏花としてだけではなく、

いろいろの仏典のなかにも登場してきますし、

蓮華座など仏具としても使用されています。

それは蓮華が仏教の教理を具体的な形で示しているからです。

 

仏教はただ単に汚れのない理想の世界だけを説くことはありません。

煩悩まみれの、われわれのこの現実の世界を不可避として認めます。

しかも、そうした現実世界にあって、

その世界に染まらない有り方を説こうとします。

 

泥の池の中にあって、しかも泥に汚れていない、きれいな蓮華は、

そうした人間のあるべき有り方を象徴的に示しています。

 

煩悩即菩提という仏教の教理は、

煩悩(泥中)の世界にあって、

しかも菩提=悟り(泥に汚されていない、美しい蓮華)の花を

咲かせた有り方を示しているのです。

 

面白い話をひとつ紹介しておきましょう。

 

西郷隆盛も師事した円了無三という禅僧は

貧しい農家の出であったにもかかわらず

藩侯の推挙で島津家の菩提所のある大寺の住職となりました。

それを妬んでいた他の寺の僧がいました。

 

その僧は何とか無三和尚を辱めてやろうと、

藩侯が和尚に、「如何なるか是れ久志良の土百姓」と

問答を仕掛けるよう計らいましたところ、

無三和尚は堂々と、「泥中の蓮華」と答えたということです。

*「久志良」は無三の出た村の名。(『近古禅林叢談』)。

 

意味は明瞭です。

たとえ自分の出所は土まみれの薄汚れた場所であったとしても、

わが心には塵ひとつ付いておらんわい、と。

 

われわれも泥中(煩悩の世界)にあって泥を被らない

泥中の蓮華」のようでありたいものです。