「岡本かの子『散華抄』より」(令和2年5月13日)
〇「生を悦ぶ心は、また死をも肯(うなず)く心。
誰か衣を愛して衣の表よりその裏を剥(は)ぎ捨てんや」。
(註:すべてを受け入れ全肯定する、これを宗教心という)。
〇「合掌の窮極は合掌三昧(ざんまい)である。向うに聴きとる仏ありとも思わず、
こちらに禱(いの)る自己あるを忘れ、ただただ素直に手を合せる。
其処(そこ)に円満不偏な心地が盛り上って来る」。
(註:ただただ三昧に入る事、これ仏教の眼目である)。
〇「身をもって、生命の理を表現して行くのは、すなわち宗教生活であります」。
(註:「生命」はこの場合、人間に本来具わっている本然自然の生き生きした生命のことである。
それを素直に実践していくこと、それが宗教生活というものである)。
〇「純粋の宗教、純粋の文学は人生の病理学です。生活常識は人生の臨床術で御座います」。
(註:医学において病理学は医の理論方面を、臨床術はその実際方面を受け持つ。
臨床術は絶えず病理学の研究報告を受けて施術されねばならない。
このように私たちの実際の人生も宗教への絶えざる目配せを必須とする)。
〇「この世を思い捨てた心こそ、却(かえっ)てこの世に輝き出る心である」。
(註:この日記でも以前、「棄ててこそ」ということを言いました)。
長岡禅塾の菖蒲
〇「解脱した後の境地は(中略)人間性を一度仏教の「空」の思想で湯掻(ゆが)いた後の淡如とした悦びであります」。
(註:この言葉は、かつて浅井義宣老師が「禅は、儒・老を仏教の空という洗濯粉で洗い直したもの」と言われていたことを私に思いださせます)。
〇「仏教では人間の善悪は因縁が生んだ所の結果であって本質的の善悪ではない」。
(註:この道理は善悪に関してのみのことではない。生死についてもまた然りである)。
〇「宗教は人間生命の重畳(ちょうじょう)を嫌う。
生命が悲しみを持つ時、悲しみ一重に生命の価値を盛る」
「一の悲しみを一の悲しみにて生死させ、五つの悲しみを五つの悲しみにて去来させる。
余は鳥蹟(ちょうせき)あと無しである」。
(註:「重畳」は「積み重ねること」。この場合は「悲」の思いに囚われ、
その思いから離れられないこと、それは生命の澱(よど)みだと説く。
言わんとすることは、「悲」のときは天地一杯「悲」となり、
そうしてその思いを引きずらず、絶えず新たな生命と生きんとすることが宗教的生だということ)。
〇「仏教の聖者には往々「笑い」がある。
これは天地と自己と「如」の一体に帰着した時の法悦の象徴である。
キリストは笑わなかった」。
(註:仏教は「笑い」の宗教である。
その「笑い」は天地と自己が一枚となった、空から湧き起こってくる全肯定の笑いである。
「呵々大笑」と言う)。
*「散華(さんげ)」とは、花をまき散らして仏を供養することであるから、
本書は言葉の花びらによる仏供養の書ということになろう。
*『散華抄』からの引用は、すべて中公文庫(2011年)によった。なお、「註」は、大雲による私註である。
*岡本かの子:1889(明治22)~1939(昭和14)年。歌人、小説家、仏教研究家。
漫画家の岡本一平と結婚。「太陽の塔」でも有名な画家岡本太郎の母。
長岡禅塾の菖蒲