観音経を唱える(令和2年7月29日)

 

百日紅(長岡禅塾)

 

妙音観世音(みょうおん・かぜおん)

梵音海潮音(ぼんのん・かいちょうおん)

勝彼世間音(しょうひ・せけんのん)

是故須常念(ぜこ・しゅじょうねん)

 

これは観音経のなかの一節です。

和訳をつけておきます。

 

妙(たえ)なる音、世を観ずる音

梵の音、海潮の音

彼の世間に勝れたる音あり

この故に須らく常に念ずべし。

 

意味が正確に分からなくてもかまいません。

漢字を見て想像力をはたらかせ、

声に出してそのリズムを味わってみてください。

 

わたしが建仁寺の僧堂におりました折り、

朝の誦経で観音経一巻を唱えることになっていました。

最初から唱えはじめて終わり近くなった辺りで、

いよいよ「妙音観世音・・・」の個所に入ります。

 

不思議なことなのですが、

毎回この個所に来ますと、

わたしの心は前方がぱっと開けたような高揚感につつまれ、

軽やかな気持ちになりました。

 

観音経について書かれた優れた本に

岡本かの子の『観音経を語る』があります。

かの子はそのなかで、

上掲の観音経の四句に触れてこんなことを言っています。

 

「こころが打ち閉される時、軽く華やかな日にも、

口称二、三遍、字句の象徴しつつあるところのものを思いなせば、

身は揺蕩たる慈海のただ中に、

悠久恩寵の旅を続ける心雅(おさ)なき舟人であります。」

 

 「寄す浪は妙音観世音であります。引く波は梵音海潮音であります。

ゆくえも知らず、遠く渚を運び去って少しの恐怖も与えないのみか、

ますます頼もしげな沖の大空を眺めさせてくれる大海の水は勝彼世間音であります。

この冥力は、かえって私をして勇ましく現実に向かわしめます。

うち閉されしこころのままで、あるいは軽く華やかなこころのままで――

そんなわけから私に取ってこの四句は是故須常念なのであります。」

 

さすが宗教的情操豊かな小説家だけあって、

かの子がその四句を称えることを通して

大海原(観世音菩薩)に抱かれ安心しきっている

心情がよく言い表されていると思います。

 

わたしの思いもうまく代弁してもらっているようで、

長々と引用してしまいました。

 

最後に観音経に生きたかの子の心の風景を詠った歌を挙げておきましょう。

 

としどしに わが悲しみは 深くして いよいよ華やぐ いのちなりけり

 

*観音経は正確には「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」と言います。

すなわち、法華経の第二十五章が独立したものです。

この経は、

若し無量百千万億の衆生ありて、諸の苦悩を受けんに、

是の観世音菩薩を聞きて、一心に名を称せば、

観世音菩薩、即時に其の音声を観じて、皆解脱することを得しめん

と言われている有難いお経であります。

 

<ご挨拶>

「大雲好日日記」も今回で100回目を迎えました。

2018年の8月から一週間に一度のペースで始めてほぼ2年になります。

最初は「おだてられて」書き始めたこのブログでしたが、

いつの間にか100回を数えることになりました。

 

そこでひと区切りついたところで、

これまでこんなモノローグのような文章を読んできていただきました皆様に対しまして、

御礼を申し上げたいと思います。

有難うございました。

 

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