丑年にちなんで(令和3年1月6日)
牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへ
まっすぐに行く
・・・
牛は急ぐことをしない
牛は力一ぱい地面に頼って行く
自分を載せている自然の力を信じきって行く
ひと足ひと足、牛は自分の道を味わって行く
・・・
自然を信じ切って
自然に身を任せて
がちり、がちりと自然につっ込み食い込んで
遅れても、先になっても自分の道を行く
・・・
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く
高村光太郎の詩「牛」からの抜粋である。
冒頭の「牛はのろのろと歩く」がその詩の基調をなしていて、
それは牛の有するすべての徳を表象している。
そうした牛の姿が光太郎の理想的人間像でもあったのだろう。
禅の世界にも牛をあつかったものがある。
その代表が「十牛図」といわれる小さなテキストである。
禅の道を歩もうとする人のためのもので、
最も基本的な教本を集めた『禅宗四部録』に収められている。
十牛図では自己自身を見失った人が、
本来の自己(これが牛で表されている)を探し求める道程を、
牛をふくむ図柄を中心に十コマに別けて順に展開されている。
十牛図で本当の自己がなぜ牛で示されているのかということであるが、
ひとつには、禅の誕生した故郷が主として中国の南方地方であり、
その地域は農耕中心の生活であったから、
牛がなくてはならない大切なものだったことが指摘できよう。
しかし、もっと根本的な理由として
牛がどっしりして、静かであり、
それでいてものすごい力をもっていることなどが挙げられる。
(上田閑照『十牛図を歩む』大法輪閣)
さらに禅語には「虎視牛歩」という言葉がある。
眼は獲物を狙う虎のように鋭く、
その歩みは牛のごとく堂々としている様をいう。
修行中の雲水のあるべき姿を指す言葉である。
「牛歩堂々」
写真の「牛歩堂々」は建仁寺派管長小堀泰巌老師の書である。
その書につぎの言葉が添えてあった。「コロナ社会にあっても、
「牛歩堂々」の歩みで良い丑年をお送りください」
コロナ禍は今年もまだ当分の間つづきそうだ。
用心してこの一年を過ごして行きたいものである。