脚下を照顧せよ
ユキヤナギ(長岡禅塾)
人が自分を愛せぬのは、
人が悪いのではなくして、
自分が人を愛しておらぬ心を有していることから、
起っていることを忘れてはならぬ。
人に親切を尽くして感謝してくれぬのは、
自分の心において、
真実に人を愛し人を思っておらなかったことが
原因しておるのであることを見落としてはならぬ。
一切の問題の焦点は、
近く内に我が一心の上に存するのである。
蜂屋賢喜代『人間道』
*禅宗寺院の上り口に「照顧脚下」と書かれた木札を見かけることがあります。「足もとに注意せよ」とは、そこでの直接の意味は「履物をきちんと揃えて上がりなさい」ということですが、そのように万事において自分の足もとのことを正しく行いなさい、という禅の教えがそこに示されています。
*この教えをもっと一般的に言い直しますと、他に対して文句を言う前に、まず自分の足もとを顧みて、自分のことをよく反省してみなさい、という意味になります。ここの掲示板の「脚下を照顧せよ」はその意味で使っています。
*「灯台もと暗し」という諺もありますように、とかく私たちは肝心の自分の心を省みることを忘れて、外に向って不満を述べがちです。また、西洋には「汝自身を知れ」があります(ギリシアのアポロン神殿の入口に刻まれた古代ギリシア人の格言)。これは「自己の無知」なることを知らしめる言葉として有名です。
そうした警句は古今東西を問わず、他にも多く見られるようですから、その点からみても人間の自己認識の甘さ(自己贔屓)の根は相当深いものだと言うことが分かります。仏教心理学が「我(が)」の根っこを心の深層に想定したことには理由があったのです。
*蜂屋賢喜代(はちや・よしきよ):1880-1964、明治13~昭和39年。清沢満之の門下生、浄土真宗大谷派僧侶。生前、長岡禅塾第三世森本省念老師とも親交があった。