アイリス・マードックのことなど(令和3年5月12日)
アイリス(長岡禅塾)
先週、カーソン・マッカラーズのことについて書いたので、
もう一人私の思い出に残っている女流作家のことを書き留めておきたい。
大学を出て私は大阪にある出版社(創元社)に勤めることになった。
創元社は昔、川端康成や谷崎潤一郎といって文豪の作品も出していたが、
私が勤めた頃は(今もそうであるが)、教養書・実用書中心の出版社になっていて、
文学作品は扱わないことが不文律となっていた。
創元社旧社屋前にて(1967年正月)
ところがどのような事情があったのか知らないが、
突如(と私には思えた)アイリス・マードックという
イギリスの作家の翻訳本を創元社で出すことになった。
アイリス・マードック(Iris Murdoch, 1919-1999)は、
アイルランド出身の哲学者・作家・詩人。
処女作『網のなか Under the Net』(1954)は、
20世紀の英語小説のベスト100冊の1冊にも選ばれている。
1978年、『海よ、海 The Sea, the Sea』でブッカー賞を受賞。
(ウィキペディア)
当時すでにマードックの邦訳は10冊ほど出版されていた。
現在ではそれが20冊を超える数にまでなっている。
こういった実績を見てみても彼女が時代を代表する作家の一人であり、
日本でも一定の読者がいたことが判明しよう。
実現はしなかったがノーベル賞作家の候補にも挙がったと聞いている。
そのマードックの原稿を持ちこんでこられたのは、
英文学者の故石田幸太郎教授(当時ノートルダム女子大学教授)だった。
原書のタイトルは“The Nice and the Good”(1968)で
邦訳は『愛の軌跡』として1972年に出版された。
そしてその担当者に指名されたのが若輩の私であったのである。
今から思えば光栄なことであったに違いないのだが、
当時私は心に煩悶をかかえていてその仕事に集中ができず、
結局、教授から完成原稿を頂戴できぬまま退社(1970)してしまった。
そのご挨拶のために教授のもとをお訪ねしたら、私の退社の理由が、
ご自分の邦訳の仕事が遅々として進んでいないことに
あるのではないかと、心配してくださった。
私はそれを聞いて大変心苦しく思ったことを覚えている。
数年前、退社して以来はじめて創元社をたずねる機会があった。
いまは社屋も大阪本町の一等地に移り、
編集部員の顔ぶれもすっかり入れかわってしまっていて、
少し寂しい感じがした。
マードック夫妻来日記念写真(京都瓢亭、1967)
写真は、左端から石田幸太郎教授、北野、通訳の女性、
マードック夫妻、創元社社長(当時)矢部良作氏、英国領事館領事。