性と仏教(令和4年2月23日)
スイセン(禅塾近辺)
大乗仏教の経典にひとつに『理趣経』があります。
『般若心経』と同じく般若部の経典に区分されていて、
真言宗の寺院では日常的に読誦されていると聞きます。
この『理趣経』は性愛を肯定する経典として知られています。
それを繙いてみますと最初に、
「性愛の快楽は、その本性が清浄であるから、
菩薩の境地そのものである」と出ています。
そして、以下で、性愛の快楽を得ようとする欲望、
男女抱合の行為、等々、性行為に関係する事柄が
すべて「菩薩の境地そのもの」であるとされ、
肯定的に説かれています。
しかし、それは私たちの欲情や性行為が
そのまま肯定されているわけでは決してありません。
仏典を読む場合にはいつも注意しなければならないのは、
それらがすべて仏陀による「禅定から出た智慧」の言葉であるという点です。
わかりやすい例をひとつ挙げてみましょう。
『般若心経』の中に「無眼耳鼻舌身意」とあります。
眼も耳も鼻も、舌も身体も心も何もかも無いというのです。
それらは実際に有るではないか、というのが普通の人の考えでしょう。
それにもかかわらず、どうして無いと言うのでしょうか?
それは仏陀が禅定に入っていて、
そこから一切が「空」であると徹見しているからです
話を『理趣経』に戻しましょう。
「性愛の快楽は、その本性が清浄であるから、
菩薩の境地そのものである」。
この場合に気をつけなければならないのは、
「その本性が清浄であるから」と言われている挿入句です。
性愛の快楽がそのまま菩薩の境地だといっているのではありません。
あくまでも禅定の観点からそう述べているのです。
ですから、『般若心経』の「無眼耳鼻舌身意」の場合と同様に、
こちらが禅定に入り「空」になっていなければ
その本当の意味を理解することはできません。
繰り返しますが、
そのように、『理趣経』に述べられていることは、
全体を通して普通の意識レベルでの言表ではありません。
もしもそのように考えれば、それは大間違いだということになります。
『理趣経』の話をしましたのは、
実は一休禅師が『狂雲集』の中に残した
「婬水(いんすい)」と題された詩のことを考えていたからです。
一休には盲目の美女で森(しん)と呼ばれた侍者がいました。
漢詩「婬水」は一休が森侍者と閨房(けいぼう、寝室のこと)をともにしたときの詩なのです。
その詩の中で一休は「婬水」のことを、
「満口の清香 清浅の水(満口清香清浅水)」と美しい詩語で表現していますが、
これは「口の中に一ぱい清香の婬水を含む」と解釈されています。
私は一休の「婬水」の詩も、
禅定の立場で理解するべきであると考えます。
すなわち、それも「空」を悟った人の詩歌であって、
普通の淫猥の次元をはるかに超えたものであるはずです。
*参考書
正木晃『現代語訳 理趣経』(角川ソフィア文庫、2019.)
蔭木英雄『中世風狂の詩 一休『狂雲集』精読抄』(思文閣出版、1991.)