地獄一定(令和4年10月26日)

 

芙蓉(長岡禅塾近辺)

 

作家の五木寛之さんが『歎異抄』に出てくる

「地獄は一定」という言葉について、

これを死後のこととせずに、

今この現実のことと解したいと述べています。

 

「救いがたい愚かな自己。

欲望と執着を絶つことのできぬ自分。

その怪物のような妄執にさいなまされつつ生きる現実の日々。

それを、地獄という」と。(『大河の一滴』)

 

絶えず不満や不安にさらされながら

生きてゆかなければならないのが人間であります。

仏教はそういう人間の有限性を「生老病死」「四苦八苦」

という言葉で私たちに示してくれています。

 

また白隠禅師は苦しみ迷い七転八倒する人間の姿を、

「雨は降る、薪はぬれる、日は暮れる、

赤子の泣くに、瘡(かさ)の痒(かゆ)さよ」

という歌で隠喩しています。

 

わが森本省念老師が「わしの腹の中は朝から晩まで

三毒(貪、瞋、痴)の波がのたうちまわっていますねん」と言われたのも、

浅井義宣老師が「心をきれいにすればするほど、自分の醜さも分かってきます」と

言われたのも、みな現実の地獄なることを吐露された言葉であります。

 

このような見方は何も大げさなことではありません。

じっと自分の内面を子細に凝視すれば、

だれでも納得のいくことであるに違いありません。

 

しかしこの苦悩に満ちた現実をしかと受け止めて、

何とかその現実を心安らかな方向へ転じたいと強く念願すれば、

仏教はそのときに種々の道を私たちに用意してくれています。

ここでは禅と念仏を採りあげます。

 

一つは日常の苦しみを避けるとことなく、

娑婆の日常と一枚になり一所懸命に生き切ることです(禅)。

それは毎日の生活を仏行として修してゆくことです。

そのことによって苦しみが消滅することはありませんが、

苦しいまま、その毒が脱落して日日好日に変質するのです。

 

もう一つは上述のような自力の道に依らず、

阿弥陀仏の衆生済度の願を信じて念仏の行に

親しむことです。これを他力といいます。

この場合も煩悩苦悩の生活が消滅することはありませんが、

仏の光明に照らされて和らげられ歓喜の世界に誘われるのです。

 

 

 

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