大雅窟遺風(三)

 

 

 

<一転語>

学校でついに、ニワトリとタマゴとどちらが先かを教えてもらえなかった。森本老師に御目にかかって、はじめてコケコッコーが先だと教えてもらった。「老師、コケコッコーが先ですね」とお訊ねしたら、「いや、そうではない、コケコッコーが先だ」と。私の人生が狂いはじめたのは、このときからです。(『長岡禅塾』)

 

 

 

 

「老師、コケコッコーが先ですね」の「コケコッコー」と「いや、そうではない、コケコッコーが先だ」の「コケコッコー」は似ているよう見えるが、全く異質なのである。どう違うかというと、前者は分別の立場での「コケコッコー」である。これに対して後者の「コケコッコー」は無分別の立場からの一声である。言葉をかえれば、天地いっぱい成り切ったところの「コケコッコー」なのである。「真実」にして「絶対」の「コケコッコー」である。単なる符号の領域を超えた言葉である。禅はこのような活きた言葉を愛する。

この話はおそらく作り話だと思う。もとネタは森本老師の「ノギ・マレスケ」の話にありそうだ(『禅が教える「接心のすすめ』178-180頁、『悟りの構造』170-171頁」参照)。さらに法眼文益(885-958)の「丙丁童子來求火(へいていどうじらいぐか)の話に遡ることもできよう(『論語と禅』51頁、参照)。

なお「一転語」とは、修行者の心機を一転させるような言葉をいう。

 

 

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