大雅窟遺風(十三)

 

<放下>

一所懸命に修行していると、それが破れることがあるんです。結局、ダメだ、もう、ええ、と。そういう時にパーッと清風が吹く。

努力して努力してやっていくと、結局、ここまでやったんだという充実感みたいなものがあるんですね。(『悟りの構造』)

 

 

ここに述べられている大雅窟の境界には、大雅窟が若い頃に、鬼叢林と言われていた伊深の正眼寺で、人間の極限のような修行生活を経験されたことが背景としてある。伊深のようなところで苦しい極限状態の生活をつづけて行かれるうちに、大雅窟はいろいろの内面的問題に逢着されたのであるが、上掲文には、いくら厳しい修行をしても「もうダメだ」という自力の限界のような思いが吐露されている。そして、「もうダメだ」と放下(打ち捨てる、手放す)したときの、それまでの息苦しさや寂寥感から解き放された安堵の気持が同時に表現されている。

しかしそのことは、大雅窟がそれで禅の修行を放棄されたということではなかった。

釈迦が苦行を止めて山を下り、身心の調子を整え、修行のやり方を変えて開悟されたのとちょうど同じように、大雅窟は長岡禅塾という伊深のような僧堂よりは修行の緩やかな道場で、森本省念老師という菩提樹下でついに真に開悟されたのであった。

 

 

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