縁というもの(令和6年3月9日)
梅(長岡公園)
仏教に縁起という用語があります。
「縁によって起る」という意味です。
しかも、すべての事物は縁起する、というように考えます。
この考え方は正しいと思います。
例えば花を咲かせるためには確かにその種あるいは苗(原因)が必要ですが、
それだけでは花(結果)は咲きません。
花を咲かせるためには
さらに土や水(縁になるもの)が不可欠なのです。
ところで縁というものは実に不思議な性質を具えています。
(「不思議な縁によって・・・」と言ったりしますね)。
それは予測不可能なしかたで私たちに働きかけてきます。
そういう意味で縁は人知を超えた作用だと言えるでしょう。
私の人生を振り返ってみますと、
その転換点にかならずある人が縁となっていたことがわかります。
しかもその人との出会いは、ほとんどの場合、偶然でした。
決して私が予期していたことではなかったのです。
もしかしたら、その人と出会わなかったかもしれないのです。
そういう出来事を縁があったというのでしょう。
人生においてこうあって欲しいと思うことが
叶う場合もあれば叶わない場合もあります。
それもすべて縁の有無による場合が多いように思います。
自分の願望が叶わなかったとき、
人はそのことを悔しく思うでしょう。当然です。
しかし、それは縁がなかった(「縁起」がよくなかった)ということなのです。
自分を超えた力がそうさせたのです。
だから、それはそれとして、
その悔しい思いからはやく離れることが必要です。
くよくよしてみても、そこからは何ものも生まれてきません。
「縁に随って須らく自から憐れむべし(随縁須自憐)」。
(人間はあらしめられるままに生きつつ、みずからを愛おしむべきものなのだ)。
これは寒山の言葉です。
任運騰騰(とうとう)、任運無作、任運自在。
これらの禅語も縁のおのずからなる運びに任せて
自在に生きて行く有り方を示しています。