出家とは何か(令和6年3月23日)
木蓮(長岡禅塾近辺)
『趙州録』に次の問答がある。
問う、「如何なるか是れ出家」。
趙州云く、「高名を履(ふ)まず、垢壊(くえ)を求めず」。
出家とは、「名声を求めようとせず、汚れ腐ったものをもとめない」ことだ。
これが趙州の答えである。
普通、出家は在家に対して、「家を出ること」、すなわち、「家庭生活を捨て」
「剃髪して仏門に帰した僧尼」のことと考えられている。
しかし趙州にはそういう「形の上での出家」の考え方は見られない。
趙州が説くのは、上の問答で分かるように、「心の上での出家」である。
そういうわけで趙州においては、出家について考える場合、
「家を出る、出ない」は問題にならない。
ある人に出家で居ることの場所について尋ねられた趙州は、
「家で坐禅しておればよろしい」と答えている。
ここではいわゆる出家と在家の区別はまったくなくなっている。
それでは「心の出家(心出家)とは何か」。
上の問答では「高名を履まず、垢壊を求めず」と答えられている。
これはしかし、心出家の最後の難関を例示したのであって、
それらがすべてだというのではないだろう。
趙州が言いたかったのはむしろ、
出家はすべからく心が清浄であらねばならない
ということだったと思われる。
心清浄とは無心(禅定)の一様相である。
ここから次の結論を得ることができる。
「出家とは無に生きる人のことである」。