別離(3/21)
君が為に、葉葉、清風を起こす(禅塾通用門入口の脩竹)
50年以上も前の話である。
友人Yと、Yを見送りに行った私と友人は、
その日、大阪駅のプラットホームにいた。
大学卒業後、Yは教諭として赴任するため、
列車で長崎県の高校に向け、出発することになっていた。
現在もそうであるが、大学を卒業すると、
ほとんどのものが、大夢をいだいて東京方面に就職していった。
大企業でなく、しかも西の方向に職を求めたYのことを、
みんなは「都落ち」だと、冷ややかな眼で見ていたような気がする。
そんなことは歯牙にもかけず、
教職への志を胸に旅立とうとするYを見送るために、
私は友人と、あの時、たった二人でプラットホームに立っていたのであった。
年度の変わり目に当たる
三月、四月のこの時節は
人の往来が盛んになる。
そこにはまた、いろんな出会いや別れがある。
「会うは別れの始め」と言う。
出会ったものとは、いつか別れなければならない。
仏教はこの苦しみを「愛別離苦(愛するものとの離別の苦しみ)」として、
八苦の一つに数え挙げている。
太郎冠者椿(禅塾正門庭)
禅僧にも勿論、また別れはある。
その心境や如何。
ここに示されているのは、
一人の僧の、ある別離の一風光である。
場面は、人里離れた山奥に住んでいる僧の住まいに
旧知の別の僧が訪ねてきて、
いよいよ別れの時がやってきたのである。
そこのところを、僧は次のように詠う。
相送って門を出でて、両(ふたり)ながら語無し
(連れ合って門まで送ったが、共に黙ったままで)
長松影下、立つこと多時
(松の木陰でただ立ち尽くすばかり)
(原文漢詩、『永源寂室和尚語録』上巻)
この偈頌の「両ながら語無し」が実によい。
そこには、惜別の限りなき情が表現されている。
と同時に、「長松影下に立つ」二人の僧の間には、何の粘着性もない。
そういうしかたで、そこでは「愛別離苦」の苦しみも
見事に透過されているのである。
そういうところまで味わい得る一句である。
大燈国師曰く、
尽日相対して刹那も対せず、億劫相別れて須臾(しゅゆ)も離れず