『徒然草』再読(3/28)
吉田兼好『徒然草』を読み返してみた。
この本の通奏低音は、
知られている通り人生無常のそれである。
たとえば、
「命は人を待つものかは。無常の来たることは、
水火の攻むるよりも速やかに、逃れがたきものを、云々」(第60段)
といったような調子の文字が随所に見いだされる。
しかし、そこに見られる無常観に悲壮な感じはない。
むしろ、だからよくよく考えて、バカな生き方はよしなさい、
と、われわれに忠告しているのである。
こういう意味で兼好の無常観を、積極的な無常観と称したい。
(*「積極的な無常観」に関しては、「大雲好日日記7」も参照。)
そんなことを思いながら読み進めているうちに、
これは論語にも匹敵する、立派な人間学の書ではないか、
そういう考えがちらっと頭をかすめた。
驚いたことに、その考えは図星だった。
江戸時代になると、
『徒然草』は「日本の論語」と評されて、
嫁入り道具の一つになった、と言われている(角川文庫版、p.275)。
今や隔世の感がある。
それにつけても返す返す残念に思うのは、
昨今ではその『徒然草』が教材として活用されることがあっても、
人間学のすぐれた書物としては
余り読まれてこなかったのではないかということである。
(このことは『徒然草』だけのことではなく、古典全般について言い得ることだ!)
以下は、私の抜き書きである(佐藤春夫訳より)。
「真人(まことの道を知り、完全な道徳を身につけた人)は知もなく、徳もなく、功名もなく、名誉もない(第38段)。」
(私注:結局、無一物ということである。)
「真理探究の大事の志を発起した人は、捨て去りがたい気がかりのことも成就しないで、そのまま捨ててしまうべきである(第59段)。」
(私注:棄ててこそ、浮かぶ瀬もあり。)
「人生の事柄が多事な中で、道を修めることを楽しみとするほど、興趣の深遠なものはない。これこそは真の大事である(第174段)。」
(私注:道は却って近くにあり。)
「いっさいの事物は、信頼するに足りないものである(第211段)。」
(私注:釈尊曰く、自灯明・法灯明、と。)
「総じて、人間は無知無能な者のようにしているのがよろしい(第232段)。」
(私注:魯の如く愚の如し。悟了は未悟に同じである。)