竹と禅(4/25)
竹図・半頭大雅画(禅塾玄関上り口)
竹は禅と縁の深い植物である。
まず有名な香厳撃竹(きょうげんげきちく)の話から。
香厳智閑禅師(きょうげんちかん、中国、?-897)は
自分の投げた瓦片が、
竹に当ってたてた「カチッ」という音で、
一瞬、忘我の境に包まれた。
禅師開悟の瞬間である。
つぎに禅者が竹を好む話題。
そもそもなぜ禅者は好むのか。
それは竹に禅的な風姿が見られるからである。
たとえば、そのすくっと立った垂直の姿、
また、竹の節と節との間が空であること等。
食をして肉無からしむ可きも、(食事に肉は無くてもよいが、)
居をして竹無からしむ可からず。(住居に竹は無くてはならない。)
肉無くんば人をして痩せしめ、(肉が無ければ、人を痩せさせ、)
竹無くんば人をして俗ならしむ。(竹が無ければ、人を俗物にする。)
禅に心得のあった詩人蘇東坡(そとうば 1036-1101)の言葉である。
山桜(禅塾通用門横)
日本の寂室元光和尚(じゃくしつげんこう)も竹の姿を次のように詠っている
(『永源寂室和尚語録 上』より)。
心虚に体勁(つよ)くして 直(なお)くして還って清し
(中は空でも体は強く、真っ直ぐでしかも清らか)
叢林に独立して 老成と称す
(やぶの中で一本立ちしていて、老成と称されている)
この詩中の「勁」「直」「清」「独立」「老成」は
いずれも禅の縁語と見ることができよう。
つぎは良寛の詩である(入矢義高『良寛詩集』より)。
竿直くして節弥(いよい)よ高く
(幹はまっすぐで節はいよいよ高く)
心虚にして根愈(いよい)よ堅し
(心(しん)は中空で根はますます堅固だ)
爾(なんじ)の貞清の質を愛す
(お前の高潔な生地が私は好きだ)
千秋庶(ねが)わくば遷(うつ)る莫れ
(どうか千年もそのままであってくれ)
さらに中国の虚堂智愚禅師(きどうちぐ 1185-1269)は、
次のような素晴らしい句を残している。
相送って門に当たれば脩竹有り、
君が為に、葉葉、清風を起こす
このように竹は禅人によって好んで詩材とされた外に、
また水墨画の世界でも格好の画材とされている。
わが先師半頭大雅老師も竹を画くことをよくされ、
現在でも禅塾内の壁面などにおいて、その作品をみることができる。
竹図・半頭大雅画(柴庵玄関の間)