「物を先に、人間を後に」(5/23)
禅塾茶室前の蹲(つくばい)
前回、自己を制御することの大切さについて述べた。
それは他者を優先せよということでもある。
このことは実践するとなると、なかなか難しいが、
頭でなら一応、理会できるだろう。
ところが、「他」が人でなく、物になるとどうだろう。
「物を優先させる」ことは、
なかなか分かりにくくなっていると思う。
近現代人が人間中心の考え方に毒されているからである。
しかし、よく考えてみると、
人間生活の基礎である衣食住の、
どの一つも「物」に依らないものはない。
だから本当は、「物」をわれわれの上に見るべきだが、
対等にすら見ず、むしろ下に見ているのが実情である。
実は物にも生命(いのち)がある(『禅道俗話』)。
この場合、生命とは、そのものがもつ能力(はたらき)のことだ。
物はすべて、それ自身の能力(=生命)を保有している。
わが恋は蘭のかおりに水のおと(仙崖)
たとえば水には万物を潤すという能力があるから、
「潤す」ことが「水」の生命である。
だからわれわれは「潤す」という「水」の、
この能力を生かして使ってゆくべきなのだ。
そうしないことは、「水」の生命を殺すこと(殺生)になる。
有名な逸話を紹介しよう。
滴水宜牧(てきすい・ぎぼく、1822~1899))禅師は、
師匠の儀山善来(ぎさん・ぜんらい)から水を大切にすべきことを厳しく戒められ、
後にみずから滴水と号して、
以来、水一滴をも無駄にしなかったということである。