天香、山に満つ(10/3)

モクセイの大樹(禅塾庭)

 

町を歩くと、どこからともなく

木犀(もくせい)の甘い香りがしてくる季節になりました。

 

そこで今回は

木犀の香りに題材を得た禅話を

ひとつ紹介してみたいと思います。

 

中国は北宋の時代、

山谷(さんこく)という名の居士が師匠の晦堂(かいどう)和尚と

山歩きを楽しんでいた時のことです。

 

すると、どこからともなく

いい香りがしてきました(天香満山)。

 

晦堂が三谷に尋ねます。

「木犀の花の香りがわかるかね(聞木犀花香麼)」。

三谷はすぐさま「わかります」と答えました。

 

そこで晦堂がおもむろに言います。

「わしはお前さんに何にも隠しておらんことが分ったであろう(吾無隠乎爾)」。

この言葉を聞いて三谷はたちまち省悟するに到りました(山谷忽悟去也)。

 

最後の箇所が分り難いと思います。

実はこの話には、次のような前段が付いています。

 

ある時、晦堂が三谷にこう問いかけます。

「論語」のなかで、孔子が「私が諸君に何か隠しごとをしていると思うか、

私は隠しだてなどは何もしていない」(述而篇)と述べていることは、

禅宗の宗旨とぴったりだのだが、そこのところが分るかね、と。

 

そう問われたとき、

三谷はそれが何のことか分からなかったのです。

こういう前話があって、

それにつづけて最初にあげた山歩きの場面となります。

 

その場面で、三谷が悟った内容とは、

およそ次のようなことでした。

 

――山歩きの折りに匂ってきた木犀の香を

「そのまま受け止めることができた」ように、

どのような事柄に対しても、それをそのまま受け入れさえすれば、

つまり、禅でいうところの禅定(三昧)に入れば

一切の問題は解消するのである(これが禅宗の宗旨)。

 

師匠に対しても同じことで、

師匠が何か隠しごとをしているのではないかと思ったとすれば、

それは自分が禅定(三昧)から外れているからなのだ。

師匠はもともと何事も隠してはおられないのだから。――

 

三谷は、木犀の香りを手がかりにした晦堂和尚との問答を通して、

そう思い知ったはずです。

 

この話とは別に、

如来密語有り、迦葉覆蔵せず」という禅語があります。

 

如来(世尊)に密語などあるはずはありません。

密語にしているのは、

それを受けとめる当人が三昧を離れ、

その事と一つに成り切れていないからです。

(一つになって、そのまま受け取れば、それでよいのです)。

 

それに対して、

三昧に入っていた迦葉は、

常に世尊と一つになり、世尊の一言一句をそのまま受け止めることができました。

つまり迦葉は覆蔵しなかったのです。

そこで迦葉のそうした真実体を見てとった世尊は、

迦葉を自分の跡継ぎにしたのでした。

 

この話は無門関6則に「世尊拈花」として出ていますので、

詳しくはそちらを見てください。

 

キンモクセイの花(禅塾庭)

 

木犀の香りなら、何の疑いもなく、そのまま受け取ることができるのですが、

そうでない場合には、大抵疑ってしまって素直になれない私たちがいます。

このことを問題だと感じて、日々に精進する必要があるように思います。