「棄ててこそ」(10/31)
石榴(ざくろ)(長岡京市内)
「ひやびやと 日のさしている 石榴かな」 (安住 敦)
新聞でこんな記事を読みました。(10/13、朝日)
悪性腫瘍で5年以内の生存率50パーセントを
宣告された42歳の男性の話です。
それは37歳でようやく大学に職を得た矢先のことでした。
「その俺がなぜ。死にたくない。死にたくない。」
それでWebサイトを利用してあらゆる情報を集めまわります。
そんなある日、ひとつの文字が目に止まりました。
<明日死んでもよし、百まで生きてもよし>
かれはこの言葉によって救われました。
「いつ来るかもわからない死におびえるよりも、
目の前の日々を大切にする。
そんな覚悟の仕方があったのかと、
心が少しだけ軽くなった」と。
コレはちょっと禅の悟りに似ています。
禅では、「棄てろ」「放て」「囚われるな」「離れろ」
等と言います。
「固執」「執着」「囚われ」は
生命(いのち)の自由を失わせるからです。
彼は<明日死んでもよし、百まで生きてもよし>
という言葉に出会って、
死への「囚われ」から解放されました。
死の恐怖から自由になったと言えます。
そして、そこからさらに、
「目の前の日々を大切にする」という、
新しい開けへと飛びだすことができたのでした。
その場その時の事に一所懸命であること、
それが禅ということでした。
“日々(にちにち)新たなり”では間が空きすぎています。
“時々(じじ)新たなり”でありたいものです。
*「一所懸命」に関しては「大雲好日日記 8」も参照してください。