マルタとマリアの話(12/25)
光燦燦(北野幸・作)
聖書に次のような話がでている。
イエスが旅の途中、ある村に入られた。
するとマルタという名の女性が
イエスを家に迎えいれた。
マルタにはマリアという妹がいて、
そのマリアはイエスの足元にすわって、
御言(みことば)に聞き入っていた。
イエスをもてなすことに大忙しであったマルタは、
その様子を見て、
マリアが自分の手伝いをするように言ってほしいと、
イエスに頼んだ。
すると、イエスは答えてこう言ったという。
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに
心を配って思いわずらっている。
しかし、無くてはならないものは多くない。
いや、一つだけである。
マリアはその良い方を選んだのだ。
そして、それは彼女から取り去ってはならないものである」。
(ルカ10-38~42)
小池辰雄『無者キリスト』は、
この個所について、
イエスはマリアのことを気にしたマルタの方を
批判的に見たと解釈している(p.96)。
その理由は、イエスによれば、
「無くてはならないものは、一つだけである」。
つまり、その場面その場面で私たちのなすべきことは、
「ただ一つだけ」なのであり、
他の「多くのことに心を配って思いわずらって」はならないのである。
私がよく言う言葉を使えば、
私たちはいつも「一所懸命」(小池は「専念」という言葉を使っている)
でなくてはならないのである。
しかるにマルタがマリアのことを気にしたというのは、
マリアが自ら選んでイエスの言を聞くことの方に一所懸命であったのに対して、
マルタはそうでなかったということになる。
イエスがマルタを諫められたわけである。
最後に小池の言葉を引用しておこう。
「キリストがいつも求めておられる実存の相は
全的ということである。私心を脱して全的に打ち込むことである。
全的ということと、無的ということがまた全く一つ、全的なのである。」
なお、ルカ伝のその個所については、
ドイツの神秘主義者マイスター・エックハルトのように、
マルタの方に精神の完全性を見る解釈の存することを
付け加えておきたい。(上田閑照『マイスター・エックハルト』
人類の知的遺産21、p.352-368)
キリスト降誕祭の日に。