「思い遣りの心」(令和2年6月10日)
禅塾のテッセン花
安倍首相の人気が芳しくないようです。
その大きな理由は、
首相の思いが多くの国民の思いとズレているから
ではないでしょうか。
首相は国民に「思い」を「遣る」のですが、
その「思い遣り」の多くが的を得ていないようです。
「何遍も同じビデオを見せられているかの如き総理の会見」(島村久夫)
一国の首相がそのようなことでは困るのですが、
それはそうとして、では、自分はどうか。
他人を批判する前に、
その点について自己を顧みる(回向返照)必要があります。
まず、「思い遣る」ということについて考えてみたいと思います。
「思い遣る」とはどういうことでしょうか。
このことを「思い遣る」の同義語である
「同情」という言葉の語源にさかのぼって考えてみます。
*「思い遣り」という言葉は古くからこの国で使われてきましたが、
「同情」は明治時代に英語の「シンパシー」(sympathy)の訳語として、
中国の古典から採用されました。
「同情」のもとの言語sympathyはsym-とpathyから
成り立っています。
sym-は「共に」、
pathyは「苦痛、病気、など」の意味です。
したがってsympathy(同情)とは、
「共に苦しむ」が本来の意味になります。
「共に苦しむ(同情)」とはどういうことでしょうか。
維摩経という仏教経典のなかに、
「衆生病むゆえに、我もまた病む」
という維摩居士の言葉が記されています。
「私が病気で伏しているのは、
皆が病気に苦しんでいるからだ」というのです。
維摩は病気の人たちに対するに、
自分もまた病気になって「思い」を同じくしようとしたのです。
観音菩薩像(京都府長岡京市勝龍寺)
【観世音菩薩(観音様)救いを求める衆生の声を聞き、 救ってくださる菩薩のこと】
これは極端な話に聞こえるかもしれませんが、
「思い遣り」とは本来そういうことではないでしょうか。
実際に病気にならなくても、
病気になるほど気を病むことはあり得ます。
ちょうど病んだ自分の子供を気づかう母親のように。
しかしながら実際にはそのような仕方で「思い遣る」ことは、
なかなかできないことです。
なぜでしょう。
考えてみると、
結局、それは私たちに「我心」があるからです。
さて、それではどうすべきか。
坐禅がその答えの一つになると思います。
坐禅を通して「我心」が消えたとき、
そのような「無心」から本当の「思い遣りの心」が
発せられることになるでしょう。
そのような心を慈悲心と申します。
禅塾のテッセン花