「禅とは何であるか」(令和2年10月14日)

 

禅塾近辺の芙蓉

 

盤珪禅師は「不生で一切事がととのう」と申された

(「大雲好日日記109参照」)わけですが、

「不生」という用語は現代人にとって

どうも分かりにくい感じがしないでもありません。

 

そこで私は「不生」の代わりに「無心」という言葉を

使ってはどうかと考えています。

 

「不生」とは「思いを生じない(起こさない)」ということでした。

ということは「無心になる」ということであり、

結局、「不生」と「無心」は同じ意味になります。

 

そんなわけで禅を説明するのにも

次のように言ってみてはどうかと思います。

 

「禅とは無心の行である」と。

 

「行(ぎょう)」とは「行い」「行為」「行動」の意味です。

ここであえて仏教用語の「行」の文字を使いますのは、

その語が簡便であるからです。

 

つぎに「無心」ということについて説明しておきます。

無我と言っても同じですが、ここでは無心としておきます。

無心とは心に何もないというのではありません。

むしろ無心は内容の充満した空間です。

 

たとえば無心で何かをしているとします。

このとき心は「しているまさにその事で」充たされているではありませんか。

ですから、無心は何もないのでは決してありません。

むしろ充実です。

 

ただ、そのことが意識されていないだけです。

無意識状態なのです。

そうした心の状態を無心というのです。

 

無心について、

もう一つ注意しておけねばならないことがあります。

この点もしばしば誤解されているようですが、

無心は何もしないという意味の無為ではありません。

 

無心は行と一つなのです。

「はたらき」を含んでいるのです。

矛盾のように聞こえるなら、

それは「無」について頭で考えているからです。

 

具体的に見てみます。

無心はまず智慧となってはたらいています。

つぎにそれがとくに他に対する場合には慈悲的な行為となってはたらきます。

無心において智慧と慈悲は一体となっています。

 

無心のそうした「はたらき」を、

「無作の作」と言ったりしています。

 

また無心の「はたらき」は、

無我の「はたらき」として、

「我」を超えた宇宙的生命の持続的な活動なのです。

禅とはそういう宇宙的生命の活発なはたらきです。

 

禅を言葉で説明すれば、そういうことになるでしょう。

その場合、もっとも難しいのは無心になることそのことです。

実際にやってみると、なかなか無心になることができません。

ここに私たちの大きな悩みがあります。

 

そういうことで、

あらためて無心の行を「修する」必要が生じてくるのです。

 

ここで禅の問題は禅修行の問題に収斂してゆくことになります。

禅において修「学」より修「行」の強調される所以であります。