「禅修行の要諦――願・信・忍」(令和2年10月21日)

 

禅塾の白萩

 

14日のこの日記で、

「禅とは無心の行である」と書いたのですが、

それを、「禅とは無心で生きることである」と言いかえてもかまいません。

むしろこの方が平易で分かりやすいかもしれません。

 

しかし、「無心で生きること」が言うほどにはやさしくないのです。

正岡子規が悟り(禅)とは平気(無心)で生きることだと了知したことは、

かえって無心で生きることの難しさを告白したものだと解することもできましよう。

(子規については、「大雲好日日記73」を参照)

 

*なお、「仏心」とは「無心」のことを言うのです。

 

無心になることは容易なことではない、

だからそのための修行が必要である、

ここまで前回お話ししました。

それで本日と次回は禅修行に関する話をしてみようと思います。

 

まず、禅修行を継続して上での諸注意について。

禅の修行を継続してゆくことは

なかなか困難をともなうことであります。

とくに居士・大姉としてやってゆく場合には特にそうだと思います。

 

*居士・大姉(こじ・だいし)とは在俗の男性・女性の禅修行者のことです。

 

以下、私のささやかな経験をもとにして、

禅修行を続けてゆくために必要な心構えのようなことを

少し述べてみようと思います。

 

禅の修行をしてゆく場合にはまず「願心」が必要だと思います。

私の場合なら「どうしようもない自分」というものがいて、

「その自分を何とかしたい」という強い内的要求がありました。

 

そのために実にいろいろなことを手探りでやってきたと思います。

そういう試みのなかでいつしか禅というものに行き着きました。

そんななか、禅の達道者が私の身近にあらわれたことは幸運でした。

その人のおかげで専門的に禅修行する道が開かれました。

 

しかし、ここからはそれまで以上に多難な道が待ちうけていました。

居士としてやってゆく場合、一方で仕事をかかえているわけですので、

まず仕事と修行の両面を満足させてゆかねばなりません。

なかなか大変なことですが、この点はまあ何とか工夫ができたかなと考えています。

 

もっともつらかったのは、

特に最初のうちは禅の何であるかがさっぱり分からなかったことです。

自分では禅修行のために仕事の時間を割いてがんばっているつもりなのですが、

いっこうに光が見えてこない、いつまでたっても黒漫漫地の状態でした。

そのために一度は修行を中断してしまったことがありました。

 

それでも禅修行を再開することができたのは、

やはり自分のどこかにあの願心がくすぶっていたからだと思います。

そしてその時に思ったことは身近に禅修行を完遂した人がいて、

自分もやってできないはずはないという思いでした。

 

これは達磨からつづく歴代の祖師方への信(頼)であるとともに、

やってできないことはないという自分自身への、

正確に言えば、私の内なる仏への信(頼)でもありました。

そこで禅修行の要諦として願心の次に挙げたいのは、

そういう意味の「信心」です。

 

それでも心の折れそうになったことが何度もありました。

しかし、そうした折の何気ない師匠の励ましにも助けられて、

そのつど自分を鼓舞し奮い立たせたものでした。

これはもう忍耐心というほかはありません。

こういうわけで要諦の第三に「忍耐心」を挙げたいと思います。

 

以上の願心、信心、忍耐心の三心が

禅修行のために必須だと私は思います。

そして、この三心はまたいかなる事業を遂行する場合にも

必要なことだと信じます。