白梅(長岡京、八条が池)
“ハイ”の声は仏の声
世間に教えは多いが、要は一つに納まる、
いつでも“ハイ”の一言が楽に言えたら、
一切の教えを身につけたことになる。
言えぬのは
何か一つ自分の都合や勝手を通そうとする「我(が)」があるからだ。
無我の境地にいると、
いつでも“ハイ”の一語がとびでる。
別に環境を変える必要もなく、
いつでも、どこでも十分にできる修行である。
それはまた言いかえると、
“タイ”を言わなくてよい身になることである、
こうしたい、ああしたい、は
我欲のあらわれでしょう。
西田天香(『禅 森本省念の世界』より)
*“ハイ”と言い得ることの真意については、以前、拙著『禅に親しむ』(第39話)でも取り上げたことがある。
*西田天香、1872-1968(明治5-昭和43)年。滋賀県長浜生まれ。南禅寺の豊田毒湛老師(1840-1917)に参禅、下座行(身を捨てての修行)を知る。一燈園の創始者。