人間 正岡子規(令和3年9月22日

 

ススキ(禅塾近隣)

 

この夏、夜はたいてい正岡子規を読んで過ごした。

オリンピックやパラリンピックが開催されていたが、

それらについては、テレビのニュースを見て、その結果を知る程度にして、

そういう祝祭の喧騒を離れて読書に時間を費やした。

 

今その読書もようやく一段落したので、

この段階で何かまとめてみようと思案したのだが、

そのように身構えてしまうと、

なかなか妙案が浮かばないものである。

 

子規は言うまでもなく、

明治以降の俳句・短歌界で、

それらの革新運動を指導した旗手であり、

日本の文学史にその名を刻む人である。

 

しかし、私の子規に対する関心は、

子規のその方面にはない。

私はむしろ、そういう文学活躍をささえた子規の生き方に興味がある。

死を目前にして懸命に生きた、その生は万民の共感を呼ぶ。

 

そこで生命活動の最基底をなす「性と食」について、

子規の場合はどうであったかを書いてみることにした。

 

まず性の問題について言うと、

子規の場合、不思議なほど、

そのことに関係する文章に出会わすことがなかった。

私が見つけたのは唯一つ、河東碧梧桐の語りにおいてである。

 

『子規を語る』の中で河東は、

二十歳くらいの時、宿に使っていた桜餅屋の娘との間に、

あるロマンスが子規との間にあった、というのである。

 

しかし、このロマンスも子規を深く強く規定しなかったようである。

そして、河東は次のように述べている。

「子規は遂に恋というものを本当に体験しなかったかもしれない」。

 

河東はその原因として、子規の女性観を挙げている。

その女性観というのは、ながく東洋世界において支配的であった

女性蔑視の考えである。

この点で子規もまた時代の子であったということであろうか。

 

このように性の方面ではまったく貧弱であった子規は、

食の面ではそれとは逆に驚くべき豊饒さを示している。

このことをもっともよく現わしているのは、

子規が病床で筆をとった『仰臥慢録』である。

 

この日記は明治三十四年(子規三十四歳)の秋から

三十五年(三十五歳)の秋に亘っていて、

子規の死の前年から死の年の直前まで書き継がれたものである。

そこに朝昼晩、三食の食事内容が子細に記録されている。

 

そこで目を引くのは、

病人の食事としては(あるいは、病人の食事だったからかもしれないが)、

メニューが高級(今風に言えば、グルメ)で、量も少なくないことである。

子規の健啖家ぶりがここにうかがえる。

 

そう言えば、だれでも知っている子規の、

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(明治28年)の俳句も、

実は彼の「食」の嗜好と深く関係していた。

柿は子規の好物の一つであったのである。

 

世の人はさかしらをすと酒飲みぬあれは柿くひて猿にかも似る(明治30年)

書を倦みて燈下に柿をむく半夜(明治29年)

芭蕉忌に参らずひとり柿を喰ふ(明治30年)

柿喰ヒの俳句好みしと伝ふべし(我死にし後は、と題して、明治30年)

柿くふも今年ばかりと思ひけり(明治35年)

 

子規の食欲が私たちを驚かすのは、

それが普通の健康な人ではなく、

重く病んだ人のそれであったからである。

その凄さは鬼気迫る、まるで餓鬼にも似たものであった。

 

このことを理解するためには、

子規を襲った病気のことを知っておく必要がある。

以下に、その経過を簡単に示してみよう。

 

明治22(1889)年、22歳、大量の喀血。

明治28(1895)年、28歳、新聞記者として日清戦争に従軍、帰途、大量喀血。神戸病院で治療、須磨で療養。

明治29(1896)年、29歳、病状悪化、脊椎カリエスと診断される。これ以降、病状は

ますます悪化してゆき、一度も快癒することはなかった。病臥の生活に入る。

明治35(1902)年、35歳、9月19日午前1時頃、逝去。

 

明治29年に悪化した病状について、子規はこう書いている。

「二月ヨリ左ノ腰腫レテ痛ミ強ク只々横ニ寝タルノミニシテ身動キダニ出来ズ」

「胃痙ヲ病ム、苦甚シ」(『子規句集』)。

 

子規はやがて自らの死を自覚するようになる(『子規句集』)。

 

萩芒来年逢わんさりながら(明治30年)

余命いくばくかある夜短し(同上)

 

そして、此の世への惜別の歌もうたっている(『墨汁一滴』)。

 

いちはつの別れかなしも来ん春にふたゝび逢はんわれならなくに(明治34年)

別れ行く春のかたみと藤波の花の長ふさ絵にかけるかも(同上)

いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を蒔かしむ(同上)

 

しかし、このような状況にありながら、子規の食欲はまだ衰えを知らない。

 

「今ノ内ニウマイ物デモ食ヒタイトイフ野心頻リニ起リシ」(『仰臥慢録』)。

「只々小生唯一の養生法は「うまい物を喰ふ」に有之候」(『墨汁一滴』)。

 

林檎くうて又物写す夜半かな(明治30年)

話ながら枝豆をくふあせりかな(明治31年)

栗飯ヤ病人ナガラ大食ヒ(明治34年)

カブリツク熟柿ヤ髯ヲ汚シケリ(同上)(注:ここにも「柿」がでてきますね。大雲)

病間や桃食ひながら李画く(明治35年)

 

明治34年9月に始った『仰臥慢録』の記述は、10月29日でいったん終っていて、

翌年35年3月10日から再開されたが、その後たった三日間で筆は止っている。

食事の内容が記されたのはここまでである。

そのことは子規の病状が極度に悪化していっていることを物語っている。

彼は6月21日につぎのように書いている。

 

「去年頃迄は唯一の楽しみとして居った飲食の欲も、

今は殆ど消え去ったのみならず、飲食其物が却て身体を煩はして、

それが為に昼夜もがき苦しむことは、近来珍しからぬ事実となってきた」。

 

そして、8月6日には、こう書く。

 

「此ごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみとなつて居る」。

(『病牀六尺』)

 

ここに他の人と違う子規の偉さがうかがえる。

子規の桁外れの食欲は確かに私たちを驚かせるが、

それは単に、食うために生きていた、のではなかったということである。

彼は死の直前まで、俳句と歌、それに草花の写生に楽しみを見いだし得た人であった。

 

しかし、食欲の停止は一期の終焉を意味する。

9月10日、枕もとで『蕪村句集』輪読会を開き、

死の前日18日に、絶筆三句を記す。

 

絲瓜咲て痰のつまりし佛かな

痰一斗絲瓜の水も間に合わず

をとゝひのへちまの水も取らざりき

 

*類句:「絲瓜サヘ仏ニナルゾ後ルゝナ」(明治34年、草木国土悉皆成仏、と題して)。