臨済録と歎異抄 西田幾多郎 禅と念仏(12)(令和4年6月1日)

 

あやめ(長岡禅塾)

 

哲学者の西田幾多郎が若いころに

禅修行に熱心に打ち込み、

その体験がいわゆる西田哲学の構築に

大きく影響したことはよく知られている。

 

その反面、西田と真宗とのかかわりについては

あまりよく知られていない。

が、西田と真宗との間に縁がなかったわけではない。

 

西田はある随筆で自分が真宗の信者でないこと、

また真宗について多くを知るものでないことを告白しているが、

自分が真宗の家に生まれたこと、母が真宗の信者であったこと、

を付け加えている。(「愚禿親鸞」1911.)。

 

そういうこともあってか、

とくに晩年になってから真宗への関心がいっそう深まったようで、

西田急逝の年にあたる1945年、鎌倉の地から、

空襲によって赤々と燃え上がる京浜地区の惨状を目前にして、

「一切焼け失せても臨済録と歎異抄とが残ればよい」

と言ったという西田の言葉が伝わっている。(『禅 森本省念の世界』)。

 

言うまでもなく、臨済録は禅宗の基本的な語録のひとつであり、

歎異抄は親鸞の肉声を、したがって親鸞の教えを

もっともリアルに伝えている書物である。

 

一見すると、相対立するように思われる臨済録と歎異抄とを

ひとつにして、その存続を祈念したところに

西田の「禅と念仏」に対する見方が示されていよう。

 

そうした見方を代表する西田の言葉を引用しておく。

「自力他力というも、禅宗といい、浄土真宗といい、

大乗仏教として、固(もと)、同じ立場に立っているものである。

その達する所において、手を握るもののあることを思わねばならない」

(「場所的論理と宗教的世界観」、以下、同じ)。

 

禅宗と真宗を分けずにひとつにして見るということが

実際に叙述の上でどのように現れているか、

その具体的な例もひとつ挙げておこう。

 

「真宗においては、この世界は何処までも業の世界である、

無明生死の世界である。唯、仏の悲願によって、

名号不思議を信ずることによってすくわれるという。

それは絶対者の呼声に応ずるということにほかならない」。

 

ここまでは真宗の立場に沿っての言及である。

そこから西田は引きつづき禅の領域へと論をすすめてゆく。

 

「かかる立場の徹底において、生死即不生である(盤珪禅師)。

(中略)また急水上に毬子(きゅうす)を打す、

念々不停流(念々、流れを停(とど)めず)である(趙州)云々」(同上)。

 

このように西田において真宗の世界と禅の世界とが

相照らす関係において理解されている。

 

それだけではない。

その上さらに、キリスト教や西洋哲学の思想にも言い及んでいて、

その宗教論全体は場所的論理(絶対無の場所の論理、

すなわち絶対矛盾的自己同一の論理)による一大宗教哲学となっている。

 

しかもそれは単に理論だけを追求するような空論ではなく、

西田が繰り返し述べているように「宗教は心霊上の事実」である以上、

西田の宗教論も実地の体験にもとづいたものであると考えなければならない。

 

そうした壮大な西田の宗教哲学の内容について

ここで詳しく論述することはとてもできないので、

「禅と念仏」というテーマに関連して、

つぎの一点だけに注意をしておきたい。

 

1945年1月6日、西田は弟子の務台理作に宛てた手紙で、

「一つ浄土真宗の世界観といふものを書いて見たい」と述べている。

そうしてその結果、完成されたのが

「場所的論理と宗教的世界観」という論文であった。

 

こういう事情を勘案するならば、

上記の表題をもつ西田の宗教論は、

それまで禅的思考法が中心的であったなかに

新たに真宗的世界観を加味し、そのようにして

十全な宗教哲学を企図したものと言うことができるだろう。

 

そのことを強く印象づけるのは、

この世界を「業(ごう)の世界」と記している

上の引用文においてそうであったように、

論中のみられる罪悪の問題への目配せである。

 

上掲引用文のほかに、我々の世界が一面において

「絶対悪の世界」「悪魔的世界」だと叙述されているあたり、

そのことは親鸞教である真宗(またキリスト教)が

人間の根本を罪悪と見ていることに対応している。

 

西田の宗教論とは

そうした罪悪の問題、それからその救済などをふくむ

宗教の諸問題を場所的論理によって根拠づけながら、

一挙に説明しようとした企てであったのである。

 

*場所的論理では、絶対者である神(仏教では仏)と我々の自己との関係が否定を間にした逆対応的関係において理解されているところに特色が見られる。我々の罪悪も、これに対する神の慈愛も、神と我々の自己との逆対応(絶対矛盾的自己同一)の関係から説明がなされている。

 

*主な参考書:

・「愚禿親鸞」、西田幾多郎著『思索と体験』(岩波文庫)所収。

・「場所的論理と宗教的世界観」、上田閑照編『自覚について』(岩波文庫)所収。

 

*さらに詳しく知るために:

・大峯顕「西田哲学と浄土真宗」、『宗教と詩の源泉』(法蔵館、1996.)所収。禅と浄土真宗とのあいだの異同をさらに追及しようとしている点にとくに注目したい(137~139頁)。

・長谷正當「西田哲学と浄土教」、『欲望の哲学 浄土教世界の思索』(法蔵館、2003.)所収。なお、同著者に関連書として『本願とは何か 親鸞の捉えた仏教』(法蔵館、2015)がある。

・竹村牧男『西田幾多郎と仏教 禅と真宗の根底を究める』(大東出版社、2002.)。とくに第一部の第二章「西田と親鸞」を参照。

 

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