生死(しょうじ)-その③(令和5年7月29日)
木槿(むくげ)(長岡禅塾近辺)
宮沢賢治の詩集『春と修羅』の序文は、
つぎのような言葉ではじまっています。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
この詩句中とくに注目したいのは、
最初の「わたくしといふ現象」という表現です。
現象という言葉は本源を予想する言葉で、
本源の現われのことを言います。
したがって現象には実在性がなく、
「仮定された」「幽霊」にすぎません。
「わたくし」とはそういう存在である、
と、賢治はいうのです。
それでは「わたくしといふ現象」の本源を
賢治は具体的にどのように考えていたのでしょうか。
その答えは病床での作『疾中』に見いだすことができます。
われやがて死なん
今日又は明日
あたらしくまたわれとは何かと考へる
(中略)
帰命妙法蓮華経
生もこれ妙法の生
死もこれ妙法の死
今身より仏身に至るまでよく持ち奉る
賢治は法華経の妙法に「わたくし」の本源をみています。
「わたくし」の生死は「わたくし」のものではなく、
妙法のしからしめるものだ、
というのが賢治の考えたことでした。
私の生死は、私の生死ではない。
私の生死は、私を超えたもの(超越)に属する。
道元はそれを仏と呼び、
賢治はそれを妙法に認めました。
妙法とは「不可思議な法」というような意味です。
それは私たちを超えて私たちを支配する第一の法。
法華経はそういう超越的な教えとして信じられています。
このように法は妙法として超越的な性格をおびていますが、
しかしそれはまた一般に、
自然法則として内在的な意味ももっているのです。
科学者であった賢治はそのことも忘れていませんでした。
われとは畢竟法則(自然的規約)の外の何でもない
からだは骨や血や肉や
それらは結局さまざまの分子で
幾十種かの原子の結合
原子は結局真空の一体
外界もまたしかり
われわが身と外界とをしかく感じ
それらの物質諸種に働く
その法則をわれと云ふ
・・・
その本源の法の名を妙法蓮華経と名づくといへり
賢治においては
宗教的(超越的)な妙法と自然的(内在的)な法則とが、
前者を本源として結びついていました。
言葉をかえれば、賢治において、科学と宗教、
一般に相いれないと考えられている両者が
矛盾することなく見事に同居していたのです。
近年になって、とくに量子物理学の方面で
宗教的なものを科学的に説明してみようとする試みがなされているようです。
その一つの例をつぎに見てみることにしましょう。