生死(しょうじ)その五(令和5年9月13日)

 

アサガオ(長岡禅塾近辺)

 

中国の北宋の時代に

兜率従悦(とそつ・じゅうえつ)という名の禅僧がいました。

禅師はいつも三つの関門をもうけて、

やって来る参禅者の修行の程度を点検しました。

 

三つの関門とは、

第一、あなたの自性はどこにあるか。

第二、死に臨むとき、どのようにその身を脱するか。

第三、肉体がバラバラになるとき、どこに向って去って行くつもりか。

以上の三問です。

 

仏教では自性(私たちの本性)は「無」であり、

無性が即ち私たちの自性であります。

では無性であるような自性は一体どこにあるのか、

これが第一の関門としてもうけられた問いです。

 

第二の関門は、第一の問いに応えることができたならば、

たちどころに生死の問題から脱けだすことができるはずだ、

さあ、どのように脱けだすか、応えてみよ、というのです。

 

第二関門が透過できたとしたら、

つぎは第三の関門。

 

第三の関門では、生死の問題を脱することができたなら、

死んでどこに行くのかもわかるはずである、

さあ、どこに行くのか、応えてみよ、と迫るのです。

 

これらの設問に対して、今かりに言語を弄して応えたとすれば、

兜率和尚はただちに「理屈を言うな!」と言って、追い帰すでしょう。

禅は説明ではなく、活きた具体的事実であるからです。

 

そういうことなのですが、

ここは参禅問答の場ではないので、

あえて少し説明を加えてみたいと思います。

 

 

第一関門について。

私たちの自性(本性)は「無」でした。

「無」である以上、それを肉眼で見ることはできません。

そういう意味でそれはどこにも無いといえます。

しかし禅定の世界ではその「無いもの」がはっきり覚知されるのです。

 

第二関門について。

私たちの自性(本性)は「無」でした。

「無」でる以上、私たちの生死は本来「無いもの」です。

このことが分れば生死の問題は自ずから解決するでしょう。

「無いもの」に縛られることほど愚かなことはないからです。

 

第三関門について。

生死の問題は本来「無い」ことが分りました。

生も死もそれぞれ因縁にもとづく「無」の現象にすぎません。

(宮沢賢治の「わたくしといふ現象」という言葉を想起してください)

因縁によって「無」から生が、因縁によって「無」から死が生起するのです。

本源の「無」から本源の「無」へ、これが生死の真相なのです。

 

「仏」とは「無」の別名にすぎません。

 

 

 

 

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