即身説法(令和5年9月20日)
ひまわり(長岡禅塾近辺)
山本玄峰老師(1866-1961)の提唱を聞きに来ていた外国人に、
山本玄峰老師
ある人:「あんた達、玄峰老師の話を聞いてわかるかね」
外国人:「いや、何もわかりません」
ある人:「何もわからんのに聞いておって、どうするのや」
外国人:「あの顔を見ているだけで心が晴々します。言葉はわからないけれど、
老師の話ぶりを聞いておるとその気持がわかります」
(平井玄恭「玄峰老師の思い出」『禅文化』78号)
提唱(老師の講話)は本当のところ、
ただ話をしたり、ただそれを聞いたりしておわるものではありません。
禅は不立文字の世界のことですから、提唱ではしゃべる姿を見せて説法し、
- これを即身説法といいます -
聞くものはその姿を見て、そこから仏法を全身で受けとめることが肝心です。
そういうわけで、玄峰老師は居眠りしながら話を聞いている人に、
「眠っておいてもよい。わしの話は法の風呂のようなものだ。
だから居眠りしておっても、わしの話はお前達の毛穴からしみこむのだ」
とおっしゃっています。
森本省念老師の提唱を聞かれた人が、次のような感想を述べられています。
「私にはその(提唱は)半分も理解できなかったが、
・・・何よりも隠寮(老師の居室)から歩いて来られる、
歩々清風のお姿、虚空が音となって響くような御提唱、
その御提唱から発せられる<香気>に聴衆は魅せられた。
成程、日本語を一語も理解しないアメリカ人が
森本省念老師の提唱を<見に来る>というお話が初めて分かった」と。
(『森本省念老師』下、p.137)
禅の話はどうも聴覚だけでは聞くことができないようです。
五感を総動員して全身で、肌感覚とでも言ったらよいのでしょうか、
そういう特別の感性が必要のようです。