大雅窟遺風(十八)
<無縄自縛>
有るといっても、誰がそういうことを決めたのか。
つまり初めっから、有るとか無いとかということのない世界(空の世界)を、
勝手に有ると思って、その有るものが有る以上は駄目だと思って、
長い間迷ってきたわけです。
だから無縄自縛ということになるんです。
有るものを否定しよう、否定しようとしてきたわけですが、
否定すべきものがない、ということですね、結局は。
真宗のことばで言えば、生れる前から救われていたんですね。
(『悟りの構造』)
仏教の世界は空の世界である。空の世界は本来、有るとか、無いとか、あるいは肯定するとか、否定するとか、そういった相対的な対立を超えた世界である。
したがって「有る」といっても、その実は「空」なのであるから、「有るもの」が縛るといっても、その縄は「空」の縄、つまり無縄なのである。
そういう「空」の縄を実際に「有る」縄だと思って、自らを縛り苦しめているのがわれわれの日常である。
しかし、このことに気づくためには、やはりわれわれ自身が禅定の生活に習熟して「空」に徹するようにしならなければならないのである。