幽霊人間(8/1)
高台寺圓徳院「百鬼夜行展」ポスター
かつてアパート暮らしをしていた頃、
向かいの棟に住んでいた人の幼子が
「暑い暑い」と言いながら表に飛び出してきた。
それを聞いたその家の老婆が喝破した。
「夏は暑いもんよ!」
「心頭滅却すれば火もまた涼し」
とは言うものの、暑いものはやはり暑い。
こう暑くてはどうにもたまらない、
そこで何か怖い話をと、幽霊の話を思いついた。
さて、禅仏教では何をもって幽霊としているか。
天龍寺の峨山和尚(1853-1900)がいわれるのに、
「今の世の中は、大抵幽霊の芝居」である、と。
真に独立独歩した人はごく稀で、
大抵は何かに依りかかり、
自分の脚で歩いていない、の意である。
すなわち人間の格好をした幽霊だらけだと言うわけである
この種の人を幽霊人間と呼ぶこととする。
名誉に依りかかっている人は「名誉の幽霊人間」である。
金銭に依りかかっている人は「金銭の幽霊人間」である。
学問に依りかかっている人は「学問の幽霊人間」である。
そうした幽霊人間が世の中を闊歩している。(『峨山側面集』参照)
その点では漱石先生はさすがに偉かった。
文部省から博士号授与の知らせを受けとった時の弁にいわく、
これからも従来通り「ただの夏目なにがしで暮らしたい」と。
漱石はその時、勲章をぶらさげた幽霊人間であることを拒否し、
裸の漱石として生きていきたいという願望を表明したのであった。
「依草附木の精霊」、
何かに依りかかっていきている人のことを、
昔、臨済禅師はそう言った。
それはまるで草に依り、木に付く幽霊のようだ、と。
臨済録に出てくる「一無位の真人」とは、
意識的・無意識的にわれわれが身に着けている一切のものを脱ぎ捨てた、
何にも依らない素裸の自己自身、無依の道人のことである。
無相の自己、無の主体、と言ったりもする。
禅仏教において真の人間とは、
そうした無一物にして独歩する人のことである。
「自灯明・法灯明」という言葉が
釈迦最期の訓戒として残されている。
「自灯明」(自らを灯とする)とは、
何も依らず無的主体となって生きることの勧めである。
そしてこのことが、そのまま、
「法灯明」(法=真実の灯の下に生きる)ことになる。
法灯明は自灯明と別のことではない。
このように禅仏教は幽霊人間ではない、
真実人間を説く革新的人間学なのである。
さて、ここにひとりの読者があって、いぶかしそうに問う、
「これまでのお話しをお聞きしましても、いっこうに怖く思いません」。
大雲、喝していわく、「脚下を照顧せよ!」。
禅塾庭の百日紅