「乙訓寺(最澄と空海の出会った寺)」長岡京歴史散歩(3)(令和3年7月7日)

 

乙訓寺 表門

 

乙訓寺(おとくにでら)は真言宗の寺院で奈良長谷寺の末寺。

乙訓地方(現在の長岡京市、向日市、大山崎町を含む一帯)最古の寺である。

推古天皇の勅願で聖徳太子が開いたと言われている。

 

長岡京の都造りを推進した藤原種継暗殺の疑いで、

延暦(785)年に早良親王が幽閉された寺でもある。

 

現在は牡丹の寺として知られている。

禅塾の南南東、約1.7km、徒歩約25分のところにある。

 

私にとって乙訓寺は牡丹の寺というよりは、

伝教大師最澄と弘法大師空海とが出会った寺院として記憶されている。

おそらくそのことは司馬遼太郎の『空海の風景』を読んでからのことだと思うので、

この機会にその本を読み直してもみた。

 

乙訓寺で最澄と空海が対面したのは弘仁3(812)年10月27日。

その日に最澄が難波、南都を旅しての途中、

乙訓寺に空海を訪ね、一夜の宿を借りたのであった。

そのころ空海は京都高雄山寺の住職であったが、

弘仁2年に乙訓寺の別当(兼務)の任にもついていた。

 

平安仏教を代表する空海・最澄の最初の直接的な対面が実現したのは、

どうもこの時が最初のようだ。

しかし最澄が空海のことを知ったのは、

それよりも3年ほど前のことである。

 

乙訓寺 本堂への通路

 

大同元(806)年に遣唐使の一員として中国に留学していた空海が、

伝法阿闍梨の資格を得て帰国した。

中国密教の最高位にあった恵果(けいか、746-805)から

後嗣としての灌頂(かんじょう、仏の位につく即位式)を受けてのことであった。

 

そのことによって空海の名はひろく京の人々の知るところとなった。

当然のことながら、このことは、空海と同じ船で唐に渡り、

自らも密教のことを少し学んで一足先に帰国していた最澄の耳にも届いていた。

 

早速、最澄は空海に手紙を書いて、

空海が唐から持ち帰った密教関係の書物の借用を願いでている。

 

このとき最澄は手紙の肩書にわざわざ「受法弟子最澄」と記した。

当時、最澄は平安仏教の最高位に君臨し、しかも空海は最澄よりも7才年少であった。

その最澄が空海に対して「弟子」と記した律儀(生真面目)さは印象的である。

 

しかし、それ以降、二人の関係は何かギクシャクしたものとなっていった。

このあたりのことは『空海の風景』の中でいろいろの角度から考察されているが、

結局のところ、それは密教受容に関する二人の考え方の相異に

起因するものであったと考えられる。

 

密教とは顕教に対しての言葉で、

顕教が言葉を通して知ることのできる釈尊の教えであるのに反して、

密教(秘密の教え)は言葉では知ることができず、

身体(身・口・意)を通した行を必須とする(この点で禅と似ている)。

 

ところが最澄はその点について理解が足りなかったかも知れない。

つまり最澄は空海の持ち帰った密教を自らの身体的経験を通すことなく、

ただ書物だけで済ませる、あるいは済まそうと考えたふしがある。

そうした考え方の違いによって両者の間柄が疎遠になっていったと思われる。

 

しかし、そのことはともかくとして

長岡禅塾のすぐ近くの乙訓寺で、

平安仏教を代表する二大高僧が出会っていたという事実は、

そこからいろいろの想像を膨らませてくれて楽しい。

 

乙訓寺(弘法大師像) 奥に本堂をのぞむ

 

*『空海の風景』:『司馬遼太郎全集』(第39巻、文芸春秋)所収。

乙訓寺のことに関しては、その301頁以下に詳しい。

 

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