万の事、皆以て、虚言、戯言、実あることなき(令和3年7月14日)
タチアオイ(禅塾近辺)
標題の言葉は、
『歎異抄』の中に示されている親鸞の言葉です。
その言葉には世間を見切った親鸞の洞察が表明されています。
しかし、それは決して親鸞の個人的な僻事ではありません。
すでに聖徳太子も「世間虚仮唯仏是真」と言われていました。
念のため、掲題の個所を三段に分けて書き出しておきます。
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は(1)
(私たち煩悩をもつ凡夫のすることは、変転きわまりない世の中では)
万の事、皆以て、虚言、戯言、実あることなきに(2)
(すべてがいつわりで、たわむれごとであって、真実といえるものはなく)
ただ、念仏のみぞ実にておはします(3)
(ただ念仏だけが真実なのです)」
そうしますと、(1)の段は、(2)の段の理由もしくは原因を、
(3)の段は、(2)の段の解決もしくは結果を示していると言えるでしょう。
親鸞のそのような言葉は昔の仏教者のものであって、
現代の私たちには関係のないことだと考える人たちのために、ここで唐突ですが、
iPS細胞の開発で2012年にノーベル医学・生理学賞を受賞された
山中伸弥教授の言葉を例に出してみたいと思います。
教授は、「山中伸弥による新型コロナウィルス情報発信」という自らのブログで最近、
「私は、科学的な真理は、『神のみぞ知る』、と考えています。」
と述べています(6月28日現在)。
もう少し詳しく見てみるために、その続きの文章も引用しておきます。
「新型コロナウィルスだけでなく、科学一般について、真理(真実)に到達することはまずありません。私たち科学者は真理(真実)に迫ろうと生涯をかけて努力していますが、いくら、頑張っても近づくことが精一杯です。真理(真実)と思ったことが、後で間違いであったことに気づくことを繰返しています。」
つまり、真理性に関して最も厳密であると言われ、
それゆえに多くの人がその真理性に期待し依拠している科学についても、
そのように考えるのは私たちの妄想であることを、
最先端を行く現役の科学者が証言しているのです。
しかし、このことは十八世紀に活躍した
ドイツの哲学者カント(1727-1804)によって、
すでに明らかにされていたことでした。
カントはそのことを私たちの物の認識方法が、
主観と客観との分離対立によっていることを見て取り、
そのかぎり私たちは原理上「物そのものは知ることができない」
(つまり、物についてその「真理」「真実」を得ることは絶対に不可能である)
と断定しました。
カントはそのようにして、
近代科学が勃興しだした時代に、
今日に先駆けて科学知の権能を批判的に考察したのでした。
科学というものは最も合理性に富んだものだと考えられています。
しかし、その科学にしてその合理性がつねに疑われるとすれば、
私たちは一体何を真理(真実)として生きて行けばいいのでしょうか。
ここまでくれば親鸞の言葉
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は」(1)、および
「万の事、皆以て、虚言、戯言、実あることなし」(2)に同意ができ、
「念仏のみぞ実におわします」(3)への理解に一歩近づくことになるでしょう。
山中教授は「真理は神のみぞ知る」と述べています。
もしかしたら教授はただ「真理は不可知である」と言いたかっただけかもしれません。
しかし、そうではなく、どうしても「神」という言葉を
そこに入れておく必要があるという考えがあったのだとすれば、
教授は神仏の超越界(親鸞の念仏の世界)を遠望していたことになるでしょう。
このことに関連して、
山中教授の言葉を親鸞の言葉の時のように、
(一)(二)(三)と三段に分け、
両者を比較してみるのも面白いのですが、
話が少し込み入りますので、ここでは割愛しておきます。
昨今、いたるところで虚言の横行が目立ちます。
それにつけても親鸞の
「万の事、皆以て、虚言、戯言、実あることなき」
の言葉が私にはつよく想起されます。