大雅窟遺風(二十四)
<修羅>
貪りと争い、それが失楽園の生活なのである。
平和をのぞむなどということは、
楽園を追われた人間のはかない、ないものねだりでしかないのである。
神に背き、本来の立場を見失っているにもかかわらず、
性懲りもなく人間は、軍事力、政治力、経済力等々で、
平和が達成できると錯覚を生じているのである。
つまり、戦争に賛成する立場も、しない立場も、
平和的方法で平和を達成できるなどと思っていることも、
みな知恵の実を食べた人間の所作であってみれば虚言(そらごと)なのである。
(「無相の風光」)
平和を望まない人は一人もいないはずである。みんな平和を希求している。けれどもわれわれが分別の世界で生活している以上、相対的な平和ならともかく、絶対的な永遠の平和を確立することは原理上、不可能であると言わざるを得ない。なぜかと言えば、分別心は否応もなく善と悪、愛と憎、親と疎、等々、種々の区別を立てるからである。だから哲学者のK・ヤスパースも闘争を人間の限界状況の一つに数えたのであった。では、どうすればよいのか。それは禅定に入ること、これだけが唯一の道である。